若い世代を中心にテレビ離れが進み、加えてITの進化が進み、メディアとの付き合い方が変わって来ています。それらの問題の中、私個人として切っても切り離せないのがニュース、SNS。
私自身、テレビはニュースしか見なかったようなものです。そして今、そのニュースも多くをネットで見るようになりました。テレビの役目は徐々にネットに奪われ、一昔前のように友人たちとの話題にも上がりにくくなっています。
メディアの変遷と共に翻弄される人心の心。今回はそんなお話。
参考リンク(墓場ネット)
個人が真偽を見定めなければならない時代
ネットには様々なニュースが溢れ、中には真偽が定かでないものも混じっています。
テレビで報道されるニュースはある程度の信頼があり、ある意味で画一的なものですが、ネットは自らで興味のあるものを選択していく側面があり、個々の判断性が出て来ます。その為、やはり好き嫌いが発生し、そこに一種の固定観念が混じってしまいます。好ましいものはより好ましいものとして、嫌いなものはより嫌いなものとして受け取ってしまい、それを他者へ伝えようとする際には、その傾向が増幅されることもあります。
また、本人がニュートラルな気持ちで見ているつもりでも、そもそもの初めからどちらかに偏った見方である場合や、既に他者の思惑が介入している場合もあります。そうなると、その報道はスタート地点の時点で、万人に正しいニュースであるとは言えないものです。ですが真に中立な姿勢というものも難しく、それを受け取った人間が上手く受け取って処理しなければなりません。
なかなか真相に触れない、もしくは不要な分割記事の溢れ
ツイッターなどで流れる雑誌記事で、広告目当てと思われるものがあります。これってだいたい5ページくらいありますよね。1ページあたりが長ければ問題ないのですが、酷いものだと数行~10数行くらい。私は3ページ以上だと興味があるもの以外は離れるのですが、それでも面倒です。また、だいたい初めの方には概要しか書いていなかったり、記事が有用なのか、自分が気になるものが書いているのか、そこから疑う必要があります。
こういう時、良くも悪くもコメントがあるもの(twitter、yahooニュース)だと、その上から二つくらいを見ると、何となく記事の特性が見えて来るものがあります。だいたい「いいね」かそのコメントに対するコメントの数順にならんでいます。
そしてそのコメントを見て、興味があるものだけを見る事が最近は多くなって来ました。こうすると楽ではありますが、これはこれで、最近聞くドラマなどの高速再生に似通ったものがありますね。それも良し悪しがありますが、とにかく様々なものが溢れるようになった現代社会、時間も受容力も限られていますので、仕方のないことかも知れません。他にも漫画のさわりだけ見て、ネタバレを見て見続けるか考えることもあります。
「情報の選択性」が一昔前よりもかなり大きくなり、それ自体は好ましいものですが、これもこれでちょっと危険なものを孕んでいるように思えます。個性や趣向嗜好は大事なものですが、行き過ぎると悪い意味で奇人変人へと向かいかねません。
中傷問題に見るモラルとネチケットの低下
私はネットを始めたのが2005年頃でしょうか、あの頃と今とではネットをしている層が違いますよね。
見出しで「ネチケット」という言葉を使ってしまいましたが、まあ死語に近いようです。今はネットマナー、ネットリテラシーという言葉に置き変わっていますね。
昔はネットの中でもある程度は誰かと繋がりがあって、それこそ趣味の繋がりで実際に会ってオフ会をしたり、純粋な動機で関わり合いに発展することが多かったのではないでしょうか。ネットは日常では知り合えない人と知り合える専門的環境であり、どちらかというと大衆受けするものではなく、今よりももっと個人個人が真剣に、積極的に他者と関わろうとしていました。個人のサイトではマナーと節度が守られ、アフィリなども少なく、それぞれの趣味活動の発表に近い感じがありました。情報を発信するにせよ、ブログを運営するにせよ、そこにはある種の信頼があり、他者の目を気にする文化があったとも言えるでしょう。
ですがやがてネット環境が整備され、「匿名性」・「コメント可」という没個性が主体となると、誰しもが容易に情報を発信できるようになり、一言で言えば利用者のレベルが下がってしまったように見受けられます。
不確かな情報を見定めらえず拡散したり、虚飾に走ったり、承認欲求に飢えていたり、低い次元で反応しあう環境になってしまったのです。
SNSという個人の内面しか見えない世界
古くはmixiに始まり、今の最新はなんなのでしょうか。古くからのネット民は、あ、これやばいということでmixiの頃に撤退していると思うのですが、破壊力をより増したインスタグラムが、そういう耐性の無い者に対して猛威を振るっています。
SNSは店舗や周囲のリアルタイムの情報収集をする分には非常に優秀なのですが、発信をしたり、交流をするなど、個々人の問題となると時に面倒になります。文面や時間間隔でしか他人を図れないので、なんといいますか、万事に寛容さがなくなってしまうんですよね。また、その人の置かれた外見や環境など様々なものを取っ払って、「発信した情報」のみで判断されることになります。
加えて、褒められれば嬉しい反面、非難されるとそれは嬉しさを超えて何倍も辛いものとなります。しかしその辛さもやがて嬉しさで書き換えられて、という反復で、その先にあるものは疲弊しかありません。
適度な使い方が出来ればいいのですが、とかく時間のありがちな学生には、恐らく危険で面倒なツールなのではないでしょうか。もともと学生同士の使用は想定されていなかったのではと思う程です。大人になると、業務に付随する更新でさえ面倒です。そんな面倒なものを争って利用するのも考えものですね。
そう考えると、人間がツールに振り回されるいい例と言えるかも知れません。ツールにより、人間は時間と労力を大きく拡張できるようになりました。ですがそれも度を過ぎれば毒になります。ほどほどに、ということがこれほどしっくり染み入ることはないでしょう。
参考リンク(RIGHT CODE 様)
ネット社会の変化の良し悪しを考える~まとめ~
インターネットは便利ですが、その反面、様々な面で危険でもあります。私も時にネット断ちをしたり、若い頃はネットの利用を完全に断ち切って生活していました。生活に必要なものでなければ、一周回って以前のアナログな暮らしに快適を見出せることもあるでしょう。
思えばSNSの台頭で、人付き合いの形が変わったように思います。それは個人(自身)と個人(他人)ではなく、個人(自身)と集団の中の個人(他人)、という括りです。違いは単純で、程度の差はあれど、集団の目があるかどうかであり、そして共有性・虚飾性があるかどうかということだと思います。結果的に純粋な楽しみではなく、どこか自分を偽ってしまい、それで疲れてしまうことも出て来てしまうのではと思います。
以上、最後までお読みいただきありがとうございました。当記事が何らかの参考になりましたら幸いです。