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人生の幕引きを考える大事さ(コラム記事)

2021年、時は超高齢社会。高齢社会というのは65才以上の割合が14%ということは知っていたので、安易な思い付きから「超」という言葉もあるのか調べてみたが、どうやら21%以上だと超高齢社会になるという。

 

さて、それなら今はどのくらいかと見てみると、28%という想像の斜め上を行く数字であった。

 

参考リンク(GD Freak! 様)

日本の人口と世帯

 

人生の後半をどう過ごすか

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画像転載元(pixabay

加齢に伴い、一般的に体力・運動能力の低下は避けられない。若い頃と比べると出来ることも限られるし、人生の質(QOL)がどうなるかを考えることは大事である。

 

身体的能力の低下を補いつつ、QOLを高める為に勉学がある。そういう意味で、知的能力を高めずして老化していくのはただ悲しい結果を生み出す可能性がある。加齢とともに肉体的な活動時間は減り、それにより得られる精神的快感も減るだろう。知的な活動時間はむしろ増えることになるだろうから、それを高める努力を比較的若い内にしておかなければならない。

 

ぼんやり無為に生きることは簡単なようで難しい。ライフワークともいえる、情熱を注ぐことの出来る何かを身に着けていくことは、年を重ねるにおいて非常に重要なこととなるだろう。

 

 

残すもの、残るもの

人は何かを残すものである。それは一般的には遺伝子であり、子孫であり、物でもある。もちろん、何かを残すことは必須でもないし、地位や名誉、財産などをあの世に持っていくことはできない。

 

それだからこそ人の記憶に残っていくことや、偉業を残し、少しでも「世に生きた証」を作りたいという考えが出てくるのは、至極自然のことであるだろう。

 

仮にこの墓場ネットであるが、私が死んだら恐らく自然的に閉鎖となる。口座が凍結されたら、サーバーもドメインも更新負荷で終了となり、あとには何も残らない。そういう意味では寂しいようで、しかし別段残すようなものでもないから、おいおい考えていく必要があるかも知れない。

 

 

死へのイメージは人、タイミングそれぞれで異なる

死というのは絶対的なものであるが、結局は答えというのは分からないのだから、個々人の解釈に大きく委ねられる性質を持っている。

 

最近読んだ手塚治虫の「ブッダ」で気になる描写が幾つかあった。まず、死とは一過性のものであり、特別なことではないこと。そして、死ぬ者は死ぬ直前まで、果たして死ぬことを考えているかも分からない、ということ。

 

これは病気にも通じるもので、仮に大病を患ったと知った場合、手術や闘病生活を思うと、治療することに勇気が必要であるかも知れない。一方で病気に全く気付かず、または知ろうとせず、既に症状が出た時には手遅れ、という事態は、単純に考えれば不幸であるが、色々と悩む心配がないという点では幸運に映ることもある。

 

死を恐れるか、それとも安らかに受け入れるか。それは年齢ごとに考え方も変わるし、その時に置かれている状況でも異なる。だがこればかりは自分で決めていくしかない。しかし、厳しい道であるが、決してイメージを持たないというのも一つの答えだろう。

 

一般に、若い間は非常に恐ろしく感じるのと同時に、しかし一種の憧れもある。それが時を重ねていくうちに、様々に変化していく。また、そこに定義を設けることが最終的な目標でもないから、曖昧であることも多く、それも一つの答えなのかも知れない。

 

参考リンク

生と死に関する個人的考察 by墓場ネット

 

いずれにせよ、備えることは大事である

高齢化の波を受けてエンディングノートや遺書、遺言、相続、あとは家系図という、一昔前はなかなか見ない分野のものが一般的になって来たように思う。

 

人生、いつ何が起こるか分からず、家族であっても死後の扱いをどう考えているか分からない。もし準備もできずに死んでしまっては、残された者への負担もまた大きなものとなってしまう。現代社会は「死」と遠いようで近く、近いようで遠い。ともすると霞んで見えるが、気が付けば薄い壁一枚を隔ててすぐそこに迫っているようにも感じる。

 

リスク管理ではないが、しかし万が一を考えておくことは、巡り巡って生きるという「質」の向上につながるかも分からない。全く不思議なものである。

 

以上、最後までお読み頂きありがとうございました。当記事が何らかの参考になりましたら幸いです。

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