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万物は流転するという絶対的真実を考える

人生には様々な困難が立ちはだかります。さて、仮に一つの挫折や苦労があったとして、そこから再び立ち上がる為に、人はどのような過程を辿るのでしょう。そういうことをふと考えてみると、なかなか深いテーマとなりそうでしたので、今回は思想の深淵を覗いてみることにしました。

 

とはいえ、今回は哲学的なタイトルでもありますが、中身は至ってそのようなことはありません。やはりいつものように思い付きで書いているだけです。もし辛い時、悲しいことがあった時、そこから抜け出すお手伝いが出来れば幸いです。

 

 

万物は流転する、ヘラクレイトスのお言葉

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画像転載元(pixabay 様)

古くはギリシャの哲学家、ヘラクレイトスは世界を「火」とイメージし、万物の流転を説きました(ネット調べ)。個人としての存在を考える上では、その細胞さえも絶えず入れ替わるということで、常に同じ個ではないと説いています。

 

物質的なものは確かに突き止めればそうであるかも知れませんが、思想やそれまでの知識などは積み重ねであり、全てが入れ替わってしまうとは、簡単には言えないように感じます。ですが、その積み重ねということも状態の変化には相違ありませんので、その意味で考えれば転換しているとも言えますね。

 

 

流転の第一点は自然である

先に結論というか、ここで記したいことを書きます。

 

努力や苦労は時に無駄になることがあるかも知れません。ですが、何度でも同じことは出来る、ということです。これは諦めない限り夢は叶う、ということに繋がる所もありますが、もちろん限りはありますし、そういう大それたものではありません。

 

人の労力を生み出すものは何でしょうか。味気ないことを言えば、それはエネルギーであり、細かいことは分子生物的な知識で明かされていますが、やはり端的に言えば糖分とも言えるでしょう。これがないと体も脳も始まりません。そしてそのエネルギーのもとは食事であって、食事は何かと言えば、その食物連鎖の始まりは植物です。

 

では植物を作るものは何かと言えば太陽の光エネルギーであり、これは地球が回り、太陽が存在する限り困ることはありません。これを踏まえて演繹的に考えてみると、太陽が存在する限り、世の中にエネルギーが遍く存在することになります。

 

そうすると、努力という一つの労力の結果があるとし、もしそれが良い結果に結びつかなかったとしても、いかなる結果さえも何かに転換されるのです。

 

それは一体何なのでしょうか。お金の増減になっているかも知れませんし、強い正負の感情になっているかも知れません。人によって千差万別、とても特定できるものではないでしょう。ただ一つ言えるのは、しかしその努力は何度でもひねり出せるものですし、一度や二度の失敗は、流転の前では何の意味もないのです。

 

 

大らかな時間間隔と精神で

時間間隔で考えると、我々にとっての一年単位というものは大きなものです。ですが、健康寿命を60年とすると約2%です。そう考えると大きいような小さいような不思議な時間とも思えますね。

 

ただ、問題はその時間が人生のどこで訪れるか、ということです。若い頃の記憶は後年に影響するという意味で引き伸ばされるものですし、その後の人生にも実際的に強い影響を持ちます。逆に、ある程度の年を重ねて経験する一年は、それこそ光陰矢の如し、あっという間に過ぎてしまいます。

 

あとは考えようです、若い頃の苦労は買ってでもせよとのことわざが語る通り、それは紛れもなく事実です。もちろん、しても意味がない、もしくは人生にとって失敗というものもありますが、それは苦労ではなく失敗というものです。苦労と失敗は同義ではありません。ただ、苦労の末の失敗は是とされますし、そういうことも含めての先のことわざでもあります。

 

 

結局、人生の後半でどうなるかが大事

最後に良い人生だったと思えるのなら、過程は気にならない。近頃は特にそのように考えるようになりました。若い頃、もしくは中途で幸運に満ち、栄華を誇っていたとしても、その人生の終盤で不幸や不運が続いてしまうと、良かった頃の記憶も薄れてしまい、その苦しい時間だけが我が身を支配してしまいます。

 

ですが、人生は恐らく、多くの方が後半になるほどしんどいものだと思います。肉体的にもそうですし、今でしたら老後の不安も昔とは比べ物になりません。社会情勢も不安は続きますし、特に日本においてはどこまで行っても仲間内での競争が付きまといます。

 

ただ、その頃になって、目に見えて生きて来るのがこれまでの苦労と、その結果である失敗などです。一度既に経験したようなことなら勝手も分かりますし、何よりそれを乗り越えて来たという確固たる自身が出て来ます。こう考えると失敗は成功の源であり、後の不運を先に体験しているようなものにも見ることが出来ます。

 

人生で運の総量が決まっているとは思えませんが、しかしそのような考え方を持つことは、不運に見舞われた際のショックをいくらか和らげる効果があります。ピンチはチャンスであり、そしていつでもそういう顔をしてやって来るものです。

 

10代のミスは昔よりも取り返しが付くようになって来ました。今は仮に高校に行かないというケースも昔ほどは少なくないですし、そうなっても生きていく道はいくらでもあります。この点では、実力主義ではありますが昔よりも大きく改善された点だと思います。教育を受けることができずとも、元の能力が高く、自己で自己をしっかり伸ばせるのでしたら、整えられたレールを進んでいる人よりも、最後は先に出ることも出来るでしょう。

 

20代以降は、一年くらいの空白期間は意外とどうでもいいです。まず、働かなければならないとか、努力しなければならない、という脅迫概念から抜けて、自由になることも大事です。この点も昔からすると考え方が変わりましたね。転職も自由ですし、能力があれば、だいたいの分野において、学歴に関する必要性も薄れて来ました。勉強において好成績を納めても、仕事に結び付けられない、というような人の話も聞くようになりました。

 

参考リンク

 

万物は流転するという絶対的真実を考える~まとめ~

流転するということは、無駄なことはない、ということです。無駄に使ったように思えるお金も何かしらの効果を生むものですし、無駄に終わったように思える努力も同じです。また、それを再び立ち上がらせるエネルギーも常に回転しているのです。すなわち、人生には無駄なことはなく、いつ何をするにも気力一つ、ということも言えるでしょう。

 

もちろん能力的な限界というものは誰にも存在しますし、年齢の壁もあります。ですがそれも意識一つで変わる可能性を秘めています。そしてそれさえも気力一つ、何かのきっかけ一つで動き出すものなのです。もしどうしてもその気が起こせないというのなら、それは結局のところは充電期間であり、まだ来るべき時が巡って来ていないとも考えられるのではないでしょうか。

 

思ったよりも世の中は寛大です。もしかすると、誰よりも厳しいのは自分自身なのかも知れません。疲れた時は、少し立ち止まって、また何かが動き出すのを待ってみてはいかがでしょうか。それは自発的でもそうでなくても、いつか動く時が来るでしょう。

 

以上、最後までお読みいただきありがとうございました。当記事が何らかの参考になりましたら幸いです。

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