マナーというと、容易にイメージこそできるが、それがどういうものか、ぱっと答えられないことがある。日本語では礼儀作法とあるが、それ以上のものを含んでいるように感じられてならない。言ってみればそれは一種の不文律のようなもので、時代とともに曖昧に変化する不思議な概念さえ含んでいると言える。
今回はそんなマナーを考えてみようと思うが、あくまで私の考えになるので、その点のご理解をご了承を願いたい。
マナーの意義
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そもそもマナーとは何か。これは、口に出して言うまでもないが、何かを効率よく、もしくはあからさまな失礼が無いように行うルールのようなものだと思う。その点で言えば「思いやり」というものとはニュアンスが異なる。言葉として使用される際も、「マナーや思いやり」という風にきちんと分けられていることが多い。一方でこれらは密接に関係しており、マナーは思いやりの心から、というのもまた事実であるから、その点で行くと分けて考えられるのも決して正しいと言うこともできない。
マナー離れの原因は
本来は子が親を見て聞いて学び取ったり、自分で考えて行動するようになるのがマナーの起こりである。だが、最近はこれが少しずつズレて来た。仮に子供が迷惑を掛ける相手が知らない他人であるなら、自分の子供がそういう相手に迷惑をかけても、親本人としてはさほど痛くはないし、成人していれば責任はその子へと生じる。成人年齢の引き下げも開始予定であるように、子が責任を担うまでに親が面倒を見る期間・時間が短くなっているように思う。また、最近では親子で行動する機会も減少している。
こういうことが何代か繰り返されると、マナーは意識して学んだ者のみが習得するものとなって、世代間で受け継がれる、万人に対する不文律としての習性が失われてしまう。
さて、近頃はどうだろうと考えてみると、若者のマナーは依然として物議をかもすことはあるが、それ以上に高齢者のマナーに関する問題の方が大きい。特に高齢男性においては、若いころにそれを習得しないまま大きくなり、そして他人の注意を受け付けなくなってしまう年代になって、いざそれを指摘されると腹を立てるようになる。こうなってしまうとマナーどころではない。
いわゆる老害問題であるが、しかしこれは男性の生物学上の問題として、ある程度は仕方のないことである。その前の段階、やはり学生~社会人の初期までに、積極的にマナーを考えていくようにしなければならない。
マナーは効率よく行う為に発展する
いつの日か、電車から降りようとしたら、ホーム側の数人に通せんぼをされることがあった。また、こちらが降りる前から横をすり抜けるようにして入り込む者も多い。マナーとしては先に降りる人を通してから、それから乗り込むのが筋である。比率的に見れば特に後者に多いのは若い女性で、見た目からして程度を察することが出来るタイプ(バカ)が多い。その点、男性は意外とそういう見た目の人間でも弁えているように見える。
さて、仮に乗る人が先に入ると、まず入口が狭くなるし車内の密度は増す。それから降りるとなると余計に人を搔き分ける必要が出る。一方で降りる人が先に出ると、あとは空いたスペースに順繰りに詰めていけばいいから、人の流れは最低限になる。所要時間も圧倒的に少なく、乗務員による外部からの視認も容易で、乗り遅れ・降り遅れの心配もない。
地方だとこれが分からないのも無理はない。ラッシュの時間帯でも、恐らく都会の数分の一で、もしくは地方のラッシュ=都会の平常という状況もある。そのような生活をしていて、あまり日常の些末なことに考えを巡らせなくなってくると、広い視野でものを考えるということはなくなってしまう。結果、我が物顔で道理を通す輩が多くなる。
都会で少しでもラッシュに揉まれる生活をしたら意識の違いに驚くことだろう。ただ、都会には都会の妖怪がいるから侮れない。かたくなに動こうとしない妖怪ブロッカー(これは小太り系中年男性に多い)を数回、本気で後ろからぶん殴りたくなったことを思い出したが、それを思うと田舎のマナー不足を嘆いている方が楽かもしれない。
参考リンク(pouch)
地方の交通系マナーは悪い
これも先と同じ理由だろう。人が多いと、「こうされたら嫌」ということが数多く生じ、自分はやらないでおこうという意識が多くの人に働く。その結果、誰もが語らず、語られずに学び、考えてマナーが形成される。それがまっとうな人間である。
都会は歩道を歩くにもなんとなくでも流れが自然と形成される(状況により右側や左側通行)ものだが、地方はそれがない。だれしもが往来の適当な所を好き勝手に歩き、自転車さえも同様である。だが、それも地方では普通であり、数人が危ないだとか嫌だとか思っていも、大概の一般人は意に介さない。結果、やはり往来が汚くなる。
人は不健康になって健康の大切さを知り、大事な人の死を知って命の大切さを知る。言葉ではどうしても分からないものがあるのだが、人間関係に於ける様々な問題に対し、とにかく様々な事象に触れ合う機会が少ないのが地方である。だから田舎者というものはマナーがなっておらず、自己中心的であり、いつしか自分の考えが定着してしまい、それで時に恥をかく結果にもなる。だが、知らない、経験できないことは仕方がないし、仮に前もって知識を持っていても、いざという時には忘れてしまう。
地方移住が叫ばれており、私もかつてその道の素晴らしさを考えたものだが、実行するには非常に様々な事柄を考慮しなければならない。特にまだ若い、もしくは行動力に余裕がある者は都会の方がずっといいだろうし、都会から地方に移住するにも更に慎重に判断しなければならない。土地柄や魅力だけでは語られない、土地の人柄。地方移住として魅力をアピールする前に、その点を今一度考えてみる機会ではないだろうか。
参考リンク(墓場ネット)
結局は人それぞれ
ここまで書いておいてなんなんだ、という結びだが、しかし、やはりどこにいてもマナーの出来ている人はどこにいてもできるだろうし、そうでない人はそうでないまま成長し、そして終わっていくのではないだろうか。そのきっかけの多い少ないも一つの要因であるのは間違いないだろうが、しかし元となるものは思いやりや慈悲、そして羞恥心などであって、およそしっかりした人であれば前述したものは蔑ろにすることはないものである。
いつの時代も何らかの形で普遍的に存在するマナーという不文律。敢えて考えてみないと自身でも今までの振る舞いが正しいのか分からないこともある。折を見て年齢にあったマナーを身に付けたいものである。