さて、世の中は東京オリンピックも色々準備が始まって来たり、いよいよ沸き上がっていますね。日本経済も一時期からする株価の上昇、そして円安と、数年前からするとかなり立ち直って来たように感じます。
しかし、私自身として、日本の将来は非常に暗いものだと感じています。日本と言ってしまうと色々広がってしまいますが、そんなに広いものではありません。ここには愛国心とか、そういう類のテーマも多少膨らんでいますが、漠然としたイメージで捉えて頂ければ幸いです。
今回は、都心部の抱えている問題と、それから都心と地方など、地域的な見方(ややマクロな見方)から考えてみました。
都会の人の群れを見ていて感じること
私は人が嫌いです。都会は今でも好きではないですが、それでもいくばくかの変化をしました。
都会に慣れるとは
まず、単純に気疲れしないものとして、人を単なる動く障害物とみなすことだったり、どれも中身は実は大したことがない外殻のようなもの(恥ずかしながら、上京前、本気で東京は選ばれた人間が住む街という認識を持っていました)と思って行動していると、少しは気が楽にはなりますね。
東京都に住めそうな適正人数は、現状の半分にも満たないくらいのもの(それでも多いでしょうけど)ではないかと感じるようになりました。
そもそも、東京と隣県だけで、国内における人口比率の約三割を占めている状況は、なんだかなあと思う毎日です。
参考リンク(nippon.com様)
一極集中を避けることの困難さ
ならば地方に分散させるべきだと思うのですが、どういう訳かそれは一向に進まない。一昔前とは違い、東京が全ての中心という考え方は若干減って参りましたが、それでもまだ色々な意見があります。
「都落ち」という言葉もありますね。確かに地方は簡単に言えば給料が少ないです。それを均すのはやはり企業として、そして政府として進めていくのが大事だと思うのですが、これもそう進みません。
東京以外は田舎という考えの方も依然として少ないですし、これから先もそういう見方がすぐに変わることはないでしょう。
外国人問題
人口集中を避ける為に、広く、中流階級(年収250~600万)から、地方に出ていくのが一番いいかと思うのですが、そうなると、東京近辺で外国人の比率が高くなる所もあります。
外国人が異様に多い街も
既にいくつかの街では、外国人に乗っ取られたかと思うような所もあるほどです。単純労働は機械よりも先に彼らに取られていますね。外国人と日本人とが国内で生活すると、日本人の方が後手に回ることになります。国土を守る、及び地域を守るという観点で生活をしていると、守りの姿勢に入らざるを得ないですし、それは仕方ないことだと思います。
外国人はそもそも母国があり、何かあった場合に帰る場所がありますので、言ってしまえば居住する地域の治安などはどうでもいいのです。そうなればやはり荒れる可能性は出るでしょう。これは人間の性質でもあるので、ある程度は誰もが経験あるのではないでしょうか。
日本人に関しても、他県出身の方が多く、加えて隣人や地域に対して帰属意識など持っていません。街が荒れていくのも当然だと思います。
外国人と一括りにはできないが…
加えて、日本は義務教育の水準はそれなりに高いものだと思いますが、外国には色々あることでしょう。ただ、知的水準の高い方はわざわざ外国に来て単純労働を引き受けないでしょうし、そういう点からも治安の悪化は免れません。
人口密度が高い、もしくは別の地域出身の方が多いと仕方のないことだと思いますが、それでもやはり適正な人口密度というものはあるのではないかと思います
参考リンク(ランキングデータ様)
表面化しはじめた、圧倒的な人材不足
東京では、人を育てるという感覚がやや薄いように感じます。〇〇が出来る、出来ないということで労働者をその時点で切り分ける感じです。0か10か、という分け方ですので、4とか7とか、学習中、及びちょっと能力足らずの人、は0と見做される可能性もあります。
人材不足の背景にあるもの
また、過剰競争の結果からか、どちらかと言えば、地方に比べると余裕のない杓子定規のような方が多いように感じます。競争に勝ち残る、いわゆる勝者にも二種類あると思うのです。その努力が一時的な付け焼刃的なものか、それとも本来の本当の力かです。
努力をして勝つのは素晴らしいですが、10時間努力をした者が1時間努力をしたものに、僅差で勝っても、それはそれで、先々に辛いものがあるのではないかと思うのです。そういうギリギリの努力でいつも勝ち進んでいくと、自然とその方の本当の背丈(本来のそう高くない力)が見えて来ます。
首都圏など、争いの激しい場面で育った平均的な人間の集団は、実は創造性に乏しい、思ったより各種能力の低い人たちの集まりだったりもします。それらが有象無象に群れて会社という形を成している所もあります。
人を評価する側が成長しきれていない
自分を基準に考えますので、例えば、これをこの人間が出来るようになるには、〇日掛かるだろうという試算をします。
実際にはその半分以下だとしても、大人になって狭い環境の中で生きていると、自分の二倍以上の伸び率を見せる人間を認めたくない、という心理も働くのでしょう。結果、育てるのは非効率的だと考えるのも頷けます。
各々で努力するという姿勢は素晴らしいのですが、それをしない(ように見える)人を、すぐに切り捨てるような対応をしてしまいやすくなります。
人が多く、選択制が多様(企業から見ても、そして個人から見えて)なので、最終的には、その場で行った努力の総量よりも、その人間そのものの質で、最終的に人々は集まります。
こういう背景があるので、何か一つの想定外の出来事があると、意外と反応できない集団が少なくないのではないかと思います。また、今は若者はどんどん転職していくか、心のどこかで転職願望を抱いています。画一的な教育をせず、個々人の努力に頼っている企業も危険かも知れません。
個々人の競争力を重要視するというか、自助努力で多くを解決することを期待するようになると、助け合いという観念が薄れてしまい、結果、残業過多による過労死や転職などを招いてしまいます。
このあたり、上の人間が気を配るべきなのでしょうが、例えば中小企業などですと、45~65歳あたりには期待出来ないという方もいらっしゃるのではないかと思います。
もう限界? 高齢化社会
別の記事でも書きましたが、すでに老人の割合は、都心に於いて飽和に近いと思っています。もっとも、まだこれは序の口なのです。
参考リンク(墓場ネット)
高齢者にNOと叫び始める時世
高齢者に対して、敬意を払えるとすれば「戦後の日本の礎を作って来た人たち」という点ですが、その方々は現在、恐らく80歳以上の方々ではないかと思います。その方々のご尽力にはただ頭が下がるばかりです。しかしながら、その次の世代が危ないのです。
話題的に言えば、高齢ドライバー、そしてキれる高齢者、そして老害などなど、非難する言葉には事欠きません。もちろんそうでない方も大勢いらっしゃいますが、さすがに酷いというのもこの世代。
特に性質が悪いのが高齢男性です。ほんと、高齢男性は4割程度がまともで、他はどうにもならない連中だという認識を持つに至りました。これは地方では分からないかと思います。都心部が抱える問題(老人数)は地方の比ではないです。
この辺りが将来に渡って日常の生活、経済を鈍化させ、日本にとっての大きな障害になっていくと私は考えています。
民主主義の脆弱性
彼らは数が多く、既得権益なども多く所持しているので、とにかく社会から立ち退きません。政治に対しても声が大きく、時間もあって金もあります。この世代をどう崩していく(崩れてくれる)かがこれからの課題だと思います。
自分が絶対的に正しい、と考える傾向のある、思考に柔軟性のない、かつ教養のない老人は本当に害でしかありません。金を吐き出すだけ吐き出して、それからなるべく人に迷惑を掛けない方法で旅に出て欲しいと思っています。
この状況が少なくとも、これから20年は終息せず、むしろ加速していきます。内閣府の発表によりますと、2036年に老人が3人に1人となり、以後も総人口が減少するに従い、総数は減少しますが高齢化率は上昇していきます。2065年の38.4%、というのが最悪の予想になるのでしょうか。
参考リンク(内閣府ウェブサイト)
個人的な経験もあり、最近は非常に先行きが暗く見えてしまう次第です。
愛国心とアイデンティティ
出生国は誰もが大切にし、そしてその国民たろうとするのは自然なことです。ただ、この心を持つあまり、ストレスとなることもあります。
日本人ならこうあるべき、という感情で見ていると、視野は狭まってしまいます。また、昨今の国際情勢からストレスを感じることも多いと思います。国際情勢のみならず、日常の生活でもそう感じられるかも知れません。
さて、ちょっと視点を変えて、この国なんてどうでもいい、と思うと、一気に気が楽になることもあります。私はそうしました。
既にこの国は傾いています。そして昔ながらの「日本人」という気質・モラル・アイデンティティの概念は薄れ、それはこれからも減少の一途を辿り続けるでしょう。これに関しては必然の道です。どう考えても守りようがないのです。
それならスッパリ捨ててしまうか、それかごく限られた空間の中で守っていくか、その二つしかないと思います。
もしこの国が回復するとしても、かなりの年数が必要になるでしょう。その間もしくはその前から、諸外国に出て暮らすことができることが、私はいわゆる「勝ち組」に入ることだと考えていますが、庶民には楽な条件ではありません。
「アラサーが個人的に考える、日本の危機」~まとめ~
日本にいる限り、生産年齢者(15~64歳)は、長期的に搾り取られることが予想されます。それを覆そうとする政治発言もかき消されることでしょう。民主政治の限界という言葉すら考えてしまいます。
まずは首都圏の人口を地方に移し、道州制のシステムを考えるなど、地方を地方としない考えが必要となるのではないでしょうか。地方はまだ土地余りという場所もありますし、そういう場所で、高齢者を交えて(社会に組み込み)、人が生きていく為の仕組みを再建築していく必要があると思います。
とはいえ、多くの人間を見て思うようになりましたが、それは恐らく不可能です。人間は年を取るに従い、必然的に変化を嫌うようになります。
そういう人間が半数以上を占める中で、そういう施策が進むはずがない、とも考えてしまいます。ただ、これは年齢というものではなく、もっと多くの要因を含みそうですね。
見れば見るほど、前述した内閣府の高齢化の状況は悲観的にならざるを得ません。
また、こういう情報は最大限に広めて、即座に対応していく必要があると思うのですが、産む場所も金も環境も、すべてが将来に向かって先細っていく環境の中で、国は産めや増やせやと碌な対策もせず声高に叫ぶだけで、対策らしい対策は打てません。
痛みは若い世代に回ります。それでいて、それが報われると思った矢先に、ようやく若者の為の政治が始まり、再び損をする立場になる可能性があるとしたら、それはただの奴隷社会。奴隷世代です。
以上、最後までお読み頂き、ありがとうございました。
参考リンク(内部リンク)