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保護者検定(仮)の導入について考える

まず、保護者検定というものは存在しませんし、これからもその可能性はないでしょう。ただ、保護者として、親としての常識を問う資格があってもいいのではないか、と個人的に思ったので、書き散らしてみた次第です。




 

先進国ならではの少子化を受けて

日本国は既に高齢社会ではありません。高齢化社会でもなく、超高齢化社会へと突入しました。65歳以上の方の割合が、それぞれ7・14・21%で高齢・高齢化・超高齢化社会と呼び名が変わり、クラスアップしていきます

 

子供が多い昔の時代であれば、それぞれの方が節度を持って互いに学びあい、また常識のない場合、村八分となり生活自体が困難となります。今はそうではありません。保護者教育という概念はナンセンスかも知れませんが、今はそういう土壌があるのです。成長性のある子供と親にはきちんとした支援をし、そうでない保護者と子供は切り捨てる。

 

むろん、こうすると低労働者階級が育たないですが、しかし、その問題もやがてAIの進歩によって解決するのではないでしょうか。まず消えるのは知的分野ではありますが、そうなると良識人が下の仕事に流れます。その結果、更に下の人間は生活することができなくなります。そうなりたくなければ努力が必要だ、という危機喚起にもなるでしょう。

 

 

子供は親の背中を見て育つ

保護者というものは、少なくとも精神的な成長においては子の目標となるべきだと思います。能力に関してはどうとも言えません。早くに親を超えたという方もいれば、未だに超えられないという方もいらっしゃいますでしょう。

 

親の能力はそれぞれです。碌な読み書き・計算さえ出来ないようでも親にはなれます。また、なってしまえば、それまでどういう経緯で育っていようと、「保護者」となります。公立の小中学校では、そういうご家庭と一緒になる可能性もありますし、表面を繕っていれば、それをそれだと見抜くことも容易ではありません。

 

私は諸事情あってかなりの偏見持ちですので、そういうご家庭とは同じ空気さえ吸いたくありません。と言って、英才教育を受けているようなご家庭とも相容れることはできません。そうなると、どうあっても、最終的に仲良くなれるのは、同じ考えを持ちうる方だけなのです。中庸でありながら、良識人であり、それなりの能力を素材として持っている方々です。

 

参考リンク(自サイト)

 

先に勉強の例を挙げてしまった後で話題を絵転換するのは恐縮なのですが、人付き合いで大事なことは「思いやり」と「想像力」だと思います。それを蔑ろにし、自分のことしか考えられないようだと、たとえ高い能力をもっていようと、忌み嫌われてしまいます。しかし、能力というものは少なからず学力に影響を受けています。

 

一般的に、頭がいい人は下手に敵を作りませんから、和を尊びます。自我を抑えられると、金銭的にも精神的にも余裕が出て来ますから、そういうことが出来るのです。困っている人がいれば助ける、自分が多く持っていたらそれを譲る、とそういう考えですね。

 

さて、世間で疎まれているのは、そういうことができない方です。自分一人の都合で考え、いつ何時でもそれを優先する。それでいて、自分に迷惑が飛んでこようものなら、必死に叩き落とそうとする。見ていて情けないものがあります。この手の傾向を示すのは、何か問題が発生した時、それを解決しようと一切考えないタイプの人間に多いです。「あの人もそうだ」と、何の解決にならないことを言ってその場をやり過ごすことしか考えていないのです。

 

社会で生きるということは、迷惑を掛け合うことであり、受け入れることでもあります。ただ、自分が迷惑をあまり発しないのに、誰かの迷惑だけを受け入れ続けるのは、誰だって面白いことではありません。常に迷惑をかける人間は、そういう考えを一切理解しようとは思いません。それで生きていける世の中というのも個人的には問題だと思いますが、これに関して異を唱えても仕方のないことです。

 

今回、さすがにこれは…という小町の投稿がありましたので、こちらにリンクを貼っておきます。ネタだと思いたいですが、こういう方がおり、こういう考えを持っていてもこの社会では問題なく通常の生活を送れるというのが事実です。

 

参考リンク(発言小町)

そんなに非常識な親でしょうか?

 

一昔前は、こういう劣等な家庭があれば、仲間から外されてしまったものです。しかし今は、その仲間はずれだけで仲間を作るということが、容易にできてしまいます。通信・及び交通の進歩が、かつて存在していた改善の可能性を奪い取ってしまったのです。

 

それもそのはず、それら我慢の効かない方々は、耐えるということが苦手で、ただずっと下に下に降りていくことしかできません。問題を直視することができないのです。子供の頃からずっと、勉強や全うな人付き合いから逃げ続けて来た人間が、大人になって気持ち一つでそれを変えることは不可能だと思います。この点で、それらの環境さえ奪い、容易に逃げ込める場所を作ってしまったことは、文明の進歩の生み出した一つの影でもあるでしょう。

 

 

子供の罪は親が償い、親の罪も子に振り掛かるという考えの擁立

保護者検定(仮)の導入について考える_イメージ画像02

こういう理論は危険ではありますが、そういう社会があれば、少なくとも、まともな人間とそうでない人間とで、住み分けが出来るのではないでしょうか。

 

保護者のレベルを図るのに、」検定や試験というものが面倒であれば、親の学歴・職歴に対してポイントを付け、その点数によって各種公共料金などの減額などを行います。

 

そうなると、子を育てれらない人間が出て来るでしょう。そうなれば子供を引き剥がし、保護します。後、然るべき環境で教育し直します。子供の気性に関しては遺伝性がかなり強いと思います。生まれつき碌でもない人間なら、そこでも改善できないでしょうが、それならそれで社会に出します。少なくとも、社会の中で学ぶことと、そういう保護者力のない保護者の下で養育されることを比べると、かなりの差が出て来るのではないでしょうか。

 

親はよりよい親になろうと養育の知識・常識を得て、その分、様々な分野で恩恵を得ます。社会は、保護者失格となった子供から、子供の養育を預かり、人的資源を得ることにつながります。各種事業所はそういうモンスターペアレンツと接する機会が減り、より働きやすくなるでしょう。

 

恐らくこういう制度を社会で行うと、憲法違反になるでしょう。ただ、限られたコミュニティで一種の制度として行うのなら、それは問題ないのではないかと思います。例えば保護者を対象とした勉強会があり、それに出席し、テストに合格できれば学費減額、その分は地域もしくは学校機関が負担する、というものです。

 

保護者の前に社会人失格という人間は、ここで「保護者」という共通概念から弾かれ、現実を目の当たりにします。その人間は、単独では社会性のない人間です。「保護者」という言葉は非常に便利で、それだけで一種の威厳さえあり、逃げ口にもなっています。それを剥がし取り、結果的に世の中の子供そのものの質を上げていく。それはそう遠くない未来、全ての社会が成熟した人口の減少しきった相当先の世界では、十分に実現しうる政策ではないかと思います。

 

最近は常識・道徳の欠如、及び各種知識が容易にインターネットで手に入ることもあり、世の中に子供を育てる資格のない保護者の情報もいくらか目に付きます。恐いのは、それらの人々は無知のきわみで、それを何一つ異常だと思っていないことです。「しめしめ」ともさえ思わず、当然と思っているのですから、救いようのないことです。

 

 

まとめ~保護者検定(仮)の導入について考える~

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まずは、子供がいる=立派だという概念を取り去ることが必要だと思います。他国に目を向けると、既にこの国は手遅れだと思いますが、それでも我々は、この国で自分の手で家族を守っていかなければなりません。甘やかされ、困難から逃げ続けて来たものと、社会の艱難辛苦の耐え抜いて来た者が、「保護者」という同じ括りで生きているという現実、それこそが平等の考えに反するのではないでしょうか。

 

少し前から話題に上がる、子供に順位を付けないという考えは、誰が発したのでしょうか。悲しさや悔しさから学ばねば、人は磨かれません。そもそも「競争を前提とした社会」の縮小である学校の中で、競争の概念を奪うというのは論外ではないかと思います。そういう中で育った人間が、社会で上手く競い合い、戦っていけるでしょうか。

 

それを差別だというのなら、差別のない社会は何の発展性もなく、努力もない、ただの形骸化した烏合の衆の集まりに他なりません。数々の分野に於ける各国の台頭と、落ちぶれてしまった今の日本を考えると、現在の形が正しいものだとは到底、思えないのです。

 

以上、最後までお読みいただきありがとうございました。当記事が何らかの参考になりましたら幸いです。