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「自身の身を守る為」の差別の大事さ(コラム記事)

差別はいけないということは、建前上、恐らくどこの国でも地域でも言われている。




 

差別を考えるのは道徳を考えることだ。人と人は助け合い、そして歴史の中で生きて来た。それは紛れもない事実だ。いわれのない差別というものは、その人の心を容易に傷つける。徐々に培ってきた自信や自尊心を奪い去り、人を絶望に落とし込む行為だ。

 

しかしながら、差別には別の顔もある。それは、自分の身を守る為の差別。これは積極的に他人を傷つける差別とは異なり、消極的な差別という側面を持ちうる。

 

例えば、金持ちが貧乏人を遠ざける行為。貧乏人からすれば腹立たしい話だが、逆になれば誰でもそうする。また、金額の差はあれ、社会的な差別は、正当性をもって、ずっと前から誰の目にも明らかな形で存在している。

 

 

身を守る為に、人と人と分けること

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さて、身を守る為には差別というか、危ういものには近寄らない、という姿勢が必要となる。これが相手が強者であるか弱者であるかで、表面的には違った意味合いを持つように見られがちだが、根幹は一緒である。

 

代表的なものが「あの子(たち)とは遊んじゃいけない」というものだ。私はこの言葉を吐かれる立場でも聞かされる立場でもなかった。だが、もし私に子供がいるとしたら、子供には口を酸っぱくして言い聞かせる。何の迷いもなく言い聞かせる。それは悪いことだろうか。犯罪の多くは金絡みだとして、金がない人間と関わらないのは生存戦略だ。

 

しかし、金持ちだからいい人だとは限らない。金があっても変な稼ぎ方をした人間の大多数は魅力に乏しい。貯蓄や地位が人間性のすべてではない。金がなくても魅力のある人は沢山いる。ただ、金がない人間の中身を見ると、そうでない人の方が比率が高いのも事実だ。

 

人は年を重ねるにつれ、人の顔や身なり、話し方でその人となりが分かるようになる。表面的な情報だけで、相手が自分にとって好ましいか好ましくないか。どんな人間でも少なからず感じるものはあるだろう。なんとなく虫が好かない、これでもいい。

 

消極的で、奨励される差別というのは、いわばこの感覚を元に生まれるものだ。どうみても出来の悪そうな夫婦から生まれた子供と、自分たちの子供を一緒にして不安にならない親はいない(その親側も出来が悪いなら別だが)。

 

参考記事(警察官クビになってからのブログ

となりで殺人事件「田舎がスラム化した話」

 

この方の記事は素直に面白い。

 

 

「自身の身を守る為」の差別の大事さ(コラム記事)~まとめ~

私は性悪説の見方をとる。人はある一定の経験や努力・忍耐を経て、ようやくまともな人間になれる。それこそ内容は千差万別、一つの経験で一気に考え方も生き方も変えられるようなこともある。ただ、人に流されて生きてきたり、楽だけをして来たり、漫然と生きてきた人間が、魅力あふれる人間であるはずはない。

 

また、人としての中身、経験は外見にも表れるから、外見で判断することも大事だ。ただ、相手を見る目がない方が大っぴらにこれをやっても、それは逆効果となる。

 

参考記事(当サイト内リンク)

色眼鏡で人を見ることは間違っていない